サムライ・バロック・プロジェクトの旗揚げ公演『テレマンの宴』

       Samurai Baroque Project

 

いよいよ明日!

 

旗揚げ公演‼

 

テレマンの宴』

 

バロック音楽アンサンブルコンサート♪

 

Samurai Baroque Project Vol.01 『テレマンの宴』チラシ

 

会場:ソノリウム

www.sonorium.jp

 

そこで、「ソノリウム」について少しお話をさせていただきます。

私、20代の時大手建築設計事務所の受付業務と秘書業務で勤務していた経験がございます。何故か友人にも丹下健三事務所で働く若手設計士さんもいて設計・意匠・設備・監理など語り合うことが多く楽しかったのです。
こちらは建築家 青木 淳 意匠設計でシンプル・モダンな純白の建物
でとても素敵な空間です。
 私、白が好きなんです。
このホールの名前の由来「sonoriumu」とは、
sonority(音響)+rium(館)を合体させた造語なのです。
サウンドデザインは永田音響設計が担当し
格別にぜいたくな建築工程を経ています。
どの席でも、同じ音を聴くことのできる音楽空間が誕生!
凄くないですか?
私もコンサート写真撮影をしていましてお客様に「どこの席が音がいいですか?」と聞かれることがあります。
このホールの場合は自信をもって、
「どこのお席でも良い音でご視聴になれます。」
と言えるのです。
残響時間は綿密に設計され
空席時は録音に適した1.3秒/500Hz、満席時はコンサートにベストな0.7秒/500Hz。
2層構造の壁と扉が完全な防音、遮音を実現しています。
ホール内の赤松の古材を敷き詰めた贅沢なフローリングも
柔らかで、ニュアンス豊かな美しい響き。
世界中を探しても出会えない「素晴らしい響きの音楽空間」と、演奏家の方々から
「天から音楽が舞い降りるような非日常の空間」と、ご来場のお客様からお喜びのお声もたくさん届いているようです。
そしてこのホールは一見さんは使用できません。
 
そんな素晴らしいコンサートホールで伊藤粒太氏主宰
【Samurai Baroque Project】記念すべき立ち上げコンサートを開催いたします。
伊藤粒太氏は以前「永福町」に住んでおりました。
今回このコンサートに向けてホール近くの「大宮八幡宮」に鳩笛のお守りをゲットしてコンサート成功のご記念をさせていただきました!
この「大宮八幡宮」は「東京のへそ」と言われ「子育て・厄除け」八幡様です。
伊藤粒太氏の亡き母と共に古楽留学へオランダ語を親子で学びオランダに親子で移住した母の音楽への思いがやっと実現いたします。
当時の時代背景や人種差別など古楽をやることで彼は多くの「トラウマ」も抱えたに違いないのです。
あまりにも辛すぎて古楽と今まで向き合うことができなかった。
写真家に転向して古楽アーティストの演奏を写真撮影する中で、
おかしな時代になっていることに彼と私は気づき始めたのです。
全然いける!
こっちは天才!
ブランク関係ない!
ってね。
ともすると「いけ好かない」って批判されるのは承知の上です。
でもわかっていただきたいのは、それ以上に彼はわたしたちは
実力があるのに押さえつけられていた。という現実があるのです。
音楽を奏でられるなんてなんて素敵なことでしょう!
そして音楽は万民の権利です。
粒太氏の母親も天から見守る34年ぶりの復帰コンサートに
心ある方々は是非ご支援を賜りましてご来場くださいますよう
心からお待ち申し上げます。
何卒よろしくお願い申し上げます。
 

会場:sonoriumu 京王井の頭線永福町駅」下車徒歩7分写真:ATSUKO ITO

 

そして、嬉しいことにこのたび東京新聞様が縦笛侍こと伊藤粒太氏の記事を新聞掲載して

いただきました!

2024年2月14日(水)朝刊 したまち版・都内版・山手版に掲載され

東京中に旋風を巻き起こしました!

 

有り難いことです♪

東京新聞」様に感謝申し上げます。

 

東京新聞」朝刊 記事掲載 したまち版・都内版・山手版

 

東京新聞 掲載記事

 

東京新聞 掲載記事

 

何故、伊藤粒太氏が34年ぶりに音楽活動を再開したのか?

その理由とは。。。新聞記事では本人の電話インタビューをして掲載になっていますが

日本の現在の社会情勢からより報道的な視点で彼の主観も交えながら

クールに表現されている感じがいたしました。

 

もう一つの理由は、「オランダ留学時代」の出来事がありました。

伊藤粒太氏は私立麻布高校3年生の頃、空間プロデュース業を手掛ける会社を経営する

父親「伊藤 隆康」氏が肝がんの為死亡したのです。

伊藤隆康氏は東京藝術大学油絵科卒の造形作家で名声を博しており、

1970年「大阪万博」では若手プロデューサーとして起用され

あの芸術は爆発だ!「太陽の塔」で一世風靡した芸術家「岡本太郎」氏や

建築設計士の「丹下健三」氏のサポート役を務め伊藤隆康氏もメインテーマ館の

プロデュースをいたしました。

 

その父親が亡くなってしまったのです。

 

大学受験どころではなくなり、夫を亡くした母の精神的な病もあり

一人っ子の長男である伊藤粒太氏が父の亡き後の会社の整理なども

することになりとても大変な高校3年生となってしまったのです。

母・倫子も同じ東京藝術大学デザイン科卒で伊藤隆康氏とは学生結婚という

当時二人はセンスある芸術一家でありました。

 

母は息子にオランダ留学をすすめた。

母と粒太氏親子二人でオランダ語を習得しオランダに古楽留学で渡ったのです。

Lyuta Ito オランダ留学時代 コンセルトヘボウ開催時コンサートパンフ

 

彼はオランダ留学で日本人が西洋音楽を奏でることに

違和感を覚えはじめました。

宗教も違う体格も違う

そして日本人はオランダでは一番にはなれない。

何故ならば。。。

 

オランダは反日だった。(彼の留学時代)
それは「第二次世界大戦中 日本軍がオランダの植民地だったインドネシアを占領し大勢のオランダ人を日本軍の捕虜にしたり抑留したりした」この時代背景の中、縦笛侍こと伊藤粒太氏はオランダ語を母と共に学びオランダに古楽留学で在住した。
 
オランダで古楽を学び「君は日本に還るのか?」との質問に
伊藤粒太氏は「オランダに残ります」と答えた。
その後人種差別を受ける。
オランダで古楽で生計を立てる人々の職を日本人が奪ってしまうことになって
しまうからです。
母・倫子はオランダが好きで住み続けたいと願った。
しかし彼は古楽はやっても潰されるものでしかなくなったのです。
生きる方向転換にオランダ在住時に既に写真家に転向をしました。
ニューヨークの写真学校のお免状も取得した。
 
そして日本に帰国後は「太陽」の写真撮影をし個展を開催、
舞台写真家として有名アーティスト撮影もし
アングラ舞台写真撮影をしながら得意な劇伴音楽の作曲も手掛けるようになった。
 
そして時は流れ平成12年5月。。。
日本とオランダが親日になるエピソードが起きたのです!
日本の皇室がオランダに訪問した時のことになります。
美智子さまの外交で親日となった経緯をご紹介いたします。
 

[オランダ全土が感動した]皇后美智子さまとある少女のステキなエピソード - YouTube

 

彼のトラウマは人生の晩年まで心に突き刺さったままでした。

 

ようやく彼は「縦笛侍 伊藤粒太」として日本人が奏でる西洋音楽

なかんずく古楽演奏家として34年の沈黙を破り復帰いたします!

 

これは369(弥勒)の慈悲の魔笛の合図でもあります!

 

なぜ?縦笛侍っていうの?

なぜ?着物を着て演奏するの?

 

そんなお声も多いです。

 

その答えは、

バロック時代(17~18世紀)は日本では江戸時代でした。

 

縦笛侍 伊藤粒太氏は自分が日本人という誇りを持ち

戦争時の武器であった刀を縦笛に変えて

現在の凝り固まった社会やそこに生きる人間の

価値観をぶった切るが如く文明末期のこの世に出現したのです。

 

 

縦笛侍こと伊藤粒太氏 写真撮影:ATSUKO ITO ( Studio LASP)

 

衣装提供:フォトグラファーATSUKO ITOのフォトアート着物ブランド

【PHOTO KIMONO A】#若松柄

 

明日のコンサート開催まで色々な方々のご支援を受けてまいりました。

お世話になりました皆様に感謝の思いで奏でます。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

心からご来場をお待ち申し上げます。

 

テレマンの宴』出演者の使用楽器 写真撮影:ATSUKO ITO (Studio LASP)

 

テレマンの宴』出演者の皆さん 写真:ATSUKO ITO

 

情報ページ

https://lasp-inc.jp/special/20230729204252/

 

Samurai Baroque Project Vol.01 『テレマンの宴』チラシ(表面)

Samurai Baroque Project Vol.01 『テレマンの宴』チラシ

 

 

縦笛侍こと伊藤粒太氏